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【読書メモ】諦める力

※自分用の読書メモを記事にしてるだけです。なので、『読者の方にわかりやすく書いた書評記事』ではないのであしからず。

タップできる目次

「諦める」は「明らめる」

辞書を引くと、「諦める」とは「見込みがない、仕方がないと思って断念する」という意味だと書いてある。しかし、「諦める」には別の意味があることを、あるお寺の住職との対談で知った。 「諦める」という言葉の語源は「明らめる」だという。  仏教では、真理や道理を明らかにしてよく見極めるという意味で使われ、むしろポジティブなイメージを持つ言葉だというのだ。

本来の意味を知ったうえで「諦める」という言葉をあらためて見つめ直すと、こんなイメージが浮かび上がってくるのではないだろうか。 「自分の才能や能力、置かれた状況などを明らかにしてよく理解し、今、この瞬間にある自分の姿を悟る」

たしかに「諦める」だと「もう無理、やーめたー。」ぐらいのネガティブワードだけど、「見極める → 明らかにする」だと意図を持つポジティブワードになる。

はじめに書かれてる文章で、いきなり「おや?」と心を掴まれる導入文。

努力しても無理かも

陸上や水泳などのスポーツの場合、結果が数字として明確に突きつけられる。自分の実力を把握するのは容易なことだ。

ハッキリと数字で結果が残るスポーツはこの点においては残酷だけど、これが真実。ビジネスも数字で結果が突きつけられるので、同じだな。

ブログもアクセスや収益など、ありとあらゆるものが数字でわかるので、立ち位置がハッキリする。

「手段」は諦めても、「目的」を諦めないこと

今の僕にとって、何かを「やめる」ことは「選ぶ」こと、「決める」ことに近い。もっと若いころは「やめる」ことは「諦める」こと、「逃げる」ことだった。

「一〇〇メートルを諦めたのではなく、一〇〇メートルは僕に合わなかったんだ」  いつのまにか、無理なくそんなふうに考えられるようになっていた。すると、自分の決断について、よりポジティブな意味を見出すことができるようになった。

「一〇〇メートルを諦めたのは、勝ちたかったからだ」 「勝つことに執着していたから、勝てないと思った一〇〇メートルを諦めた」

「勝つことを諦めたくないから、勝てる見込みのない一〇〇メートルを諦めて、四〇〇メートルハードルという勝てるフィールドに変えた」

「勝つことを諦めたくない」

多くの人は、手段を諦めることが諦めだと思っている。  だが、目的さえ諦めなければ、手段は変えてもいいのではないだろうか。

一〇〇メートルで決勝にも出られない人間と、四〇〇メートルハードルでメダルを取れる人間。どちらに価値があると自分は思うのだろうか。  問いを変えることで、答えも変わってくるのである。

勝ちにこだわるからこその決断。

改めて1つの目的に到達する道は1つではない。ブログはうまくいかなかったけどYouTubeだとうまく行ったとか、その逆とかもありえることなので、『目的を諦めない』って大事なこと。

そのためには、目的が明確であり、さらに事あるごとに目的の再確認をしておくことも重要かな。「自分の真の目的はなんだ?」とたまには自問してみよう。

「勝ちやすい」ところを見極める

「私がこの種目を選んだのは、勝ちやすいからです」

新しいアスリートもドラマもどんどん生まれていくから、今脚光を浴びているアスリートたちはどんどん昔の人になっていく。「知名度があれば大丈夫」という周囲の言葉を鵜呑みにしているとあっという間に忘れ去られてしまうのだ。

環境がどうあれ、とにかく生き延びる。それを目標に自分の力をつけて、仕組みをつくっていきたい。

勝つべくして勝つ。完全にビジネス視点。

そして、環境がどうあれとにかく生き延びることもまさにビジネス。

ダーウィンの進化論にある「強いものが生き残るのではなく、変化したものが生き残る」に似た感覚かな。生き残る目的のために手段を色々変化させてやるのみ!

その努力の延長線上に憧れの人はいる?

僕がいくらがんばっても、ルイスにはなれない。僕の努力の延長線上とルイスの存在する世界は、まったく異なるところにあると感じた。

世の中には、自分の努力次第で手の届く範囲がある。その一方で、どんなに努力しても及ばない、手の届かない範囲がある。努力することで進める方向というのは、自分の能力に見合った方向なのだ。

自分とは違う別人をモデルにして「あの人のようになりたい」と夢想する人は多い。そのときに気をつけなければならないのは、その人と自分の出発点がそもそもまったく違うということだ。  それでも「似たタイプ」であれば、近づくことも、追い抜くことも可能だと思う。しかし、純粋な憧れだけである人を目標に努力した場合、それが自分自身の成長を阻害する要因になることもありうる。

憧れの存在を持つなとは言わない。  ただ、自分の憧れる存在が本当に自分の延長線上にいるかどうかということを、しっかりと見極めるのは非常に大事なことになってくる。自分とはまったく接点のない人に憧れて、自分の短所を埋めているつもりが長所ごと削り取っている人はかなりの数に上ると思う。僕はこれを「憧れの罠」と呼んでいる。

人生は可能性を減らしていく過程でもある。年齢を重ねるごとに、なれるものやできることが絞り込まれていく。可能性がなくなっていくと聞くと抵抗感を示す人もいるけれど、何かに秀でるには能力の絞り込みが必須で、どんな可能性もあるという状態は、何にも特化できていない状態でもあるのだ。できないことの数が増えるだけ、できることがより深くなる。

憧れを原動力に行動するのはいいけど、そこに「本当にそのベクトルでいいの?」と俯瞰して見れる自分が必要。

自分が戦えるフィールドを探すこと = 戦略

人間には変えられないことのほうが多い。だからこそ、変えられないままでも戦えるフィールドを探すことが重要なのだ。  僕は、これが戦略だと思っている。

戦略とは、トレードオフである。つまり、諦めとセットで考えるべきものだ。だめなものはだめ、無理なものは無理。そう認めたうえで、自分の強い部分をどのように生かして勝つかということを見極める。  極端なことをいえば、勝ちたいから努力をするよりも、さしたる努力をすることなく勝ってしまうフィールドを探すほうが、間違いなく勝率は上がる。 「だって、僕がこの分野に行けば有利なんだよね。」

孫子は「戦わずして勝つ」ことを善としている。勝つためには、最初から負けるフィールドを選ばないことが重要なのだ。

戦わずして勝つ → 負けるフィールドを選ばない → 勝率を上げる作業に時間をさく

勝つべくして勝つって、相当すごいこと。

最高の戦略

最高の戦略は努力が娯楽化することである。そこには苦しみやつらさという感覚はなく、純粋な楽しさがある。苦しくなければ成長できないなんてことはない。人生は楽しんでいい、そして楽しみながら成長すること自体が成功への近道なのだ。

僕が言いたいのは、あくまでも「手段は諦めていいけれども、目的を諦めてはいけない」ということである。言い換えれば、踏ん張ったら勝てる領域を見つけることである。踏ん張って一番になれる可能性のあるところでしか戦わない。負ける戦いはしない代わりに、一番になる戦いはやめないということだ。

苦労を苦労と思わない、努力を努力と思わない、好きで時間がすぎるのも忘れるぐらいハマれることをやれってことだな。

そして、ハマれるものに出会う方法は、興味があるものは全部やれ!です。

努力すれば夢はかなう

「今まで一生懸命やってきたし、続けていれば希望はある」  こう考える人は、もしかしたら自分を客観視できていないのかもしれない。

一生懸命やったら見返りがある、という考え方は、犠牲の対価が成功、という勘違いを生む。

競技生活に入ってから、僕が最初に信じたモデルは「努力すれば夢はかなう」だった。  勝てないとき、記録が出ないときは、自分の努力が足りないと考えた。自分の行動を仔細に検証し、さらに自分を追い込んでトレーニングをした。しかし、それでも結果は出なかった。

「先が見えてくる」ころからは、「やればできる」「諦めなければ夢はかなう」というロジックだけでは人生はつらいものになっていくだろう。

日本人は「せっかくここまでやったんだから」という考え方に縛られる傾向が強い。  過去の蓄積を大事にするというと聞こえはいいが、実態は過去を引きずっているにすぎないと思う。経済活動も含めて、日本人はサンクコストを切り捨てることが苦手だし、サンクコストを振り切って前に進むのがいけないことのように考えがちだ。

願望を希望と錯覚してズルズル続けている人は、やめ時を見失いがちだ。なぜなら、願望は確率をねじ曲げるからである。  人は、成功の確率が一パーセントしかないのに、願望に基づいたいろいろな理屈をつけることで、一〇パーセントに水増しするということをやってしまいがちだ。

ハードルを全力で飛ぶと、自分で思っているよりももっと高く飛べるんだということもわかるし、今の自分では飛べない高さがあることもわかる。人間は本気で挑んだときに、自分の範囲を知る。手加減して飛べば本当はどのくらい飛べたのかがわからない。

継続は大事だけど、継続さえすればうまくいくなんてことはない。美学でも綺麗事じゃない。

それにしても、僕が最初に信じたモデルは「努力すれば夢はかなう」だった…の一文は超刺さったw

「今の人生」に並行する「別の人生」

人には、自分が今歩いている道の横に、並行して走っている人生が必ずある。たとえば僕には、アスリートという人生のほかにも、普通の企業に勤めるビジネスパーソンとして生きる人生もあっただろう。もちろん、ほかにもいろいろな可能性があったはずだ。まずは、今見えているのとは違う人生があることをわかっておくことだ。

今自分が走っている人生とその横に走っているいくつかの人生は、俯瞰してみれば、同じゴールにつながる別のルートである可能性もある。直線的にゴールに向かう最短ルートもあれば、少し回り道かもしれないが、確実にゴールに到達するルートだってある。このことを意識しているだけで、何かをやめたり、諦めたりすることに積極的な意味を感じ取ることができるだろう。

しかし「この道が唯一の道ではない」と意識しておくこと、そして自分が今走っているこの道がどこにつながっているのかを考えてみることによって、選択肢が広がるのは確かなのだ。

手段は諦めても、目的を諦めなければ良い。を別の言い方に直した感じ。

どの選択をしても目的に向かうんだよ。

と信じれたら、どんな決断もできる。

選択に悩むのは、優先順位が決まってないから。

人間が何かを選択するときに悩むのは、何を選んでいいかわからないからではない。自分にとってより大切なことが何なのか、判断がつかないから悩むのだ。①と②と③の優先順位が決まっていないと、ABCのうちから一つを選ぶという行為ができなくなる。自分を優先した選択をすれば、誰かをがっかりさせる可能性もある。

判断できないのは、優先順位が決まってないから。

大いに反省させられましたw たしかにすぎるとおりの文章。

決断が早いひとは常に優先順位をつけることができてるってことにもつながる。

「自分には合わなかった」

「自分には合わなかった」  本質的には、ただそれだけのことではないだろうか。自分が成功しなかったのは、その分野に合わなかっただけだ。ほかに合うフィールドがあるかもしれないから、諦めて、やめて、移動するのだ。

意味を見出そうと一生懸命考えていくと最後には意味なんてなんにもないんじゃないかと思うようになった。人生は舞台の上で、僕は幻を見ている。人生は暇つぶしだと思ってから、急に自分が軽くなって、新しいことをどんどん始められるようになった。

人生は暇つぶし…。みんな死ぬのは確定だし、こう思って行動できるなら大アリですよね。

そしてやってみて違うなら「自分に合わなかっただけ」。何より大切なのは目的を諦めないことだから。

やめることが正解かどうかは、わからない。

正直なところ、やめたことが正解かどうかということは、その瞬間はまったくわからないものだ。何が失敗で、何が成功か、何がいいやめ方で、何が悪いやめ方か。これはどういう時間軸で見るかによって異なってくる。  だからこそ、自分のなかで「納得感」を持って終わるしかないと思う。

ルールと締め切りは絶対に守る。

人間が墜ちていくときには、そんなに大きな出来事があるわけではなく、越えてはいけない一線を、ほんの少し越えてしまった瞬間にズルズルと墜ちていく。

締め切りを破ってズルズルと引き延ばすことには、ある種の快楽がある。決断を先延ばしにする心地よさは、誰もが経験したことがあるのではないか。 「まあ、今日はいいか」 「とりあえず、今年はいいか」 「来年考えることにしよう」 「きりのいいところまでやろう」  ズルズルと墜ちていくことの表現はいろいろある。その快楽に自分で気づいている人であれば、修正するのはそれほど難しいことではない。  問題なのは、無意識のうちに快楽に溺れてしまっている人だ。自分で決めた儀式を自分の決断で先延ばししているような気になっているだけで、実際は決断できない状態が延々と続いているだけなのだ。

…。

夏休みの宿題を最後の方に焦ってしてた人は、必読。

「普通」の基準で人生が変わる

何を「普通」ととらえるかで人生は相当に変わる。たとえば親戚にフランス人がいたり、学校に行かず独学で大学に入った人がいれば、日本で当たり前とされることを自然に疑うことができる。

人は場に染まる。天才をのぞき、普通の人がトップレベルにいくにはトップレベルにたくさん触れることで、そこで常識とされることに自分が染まってしまうのが一番早い。人はすごいことをやって引き上げられるというより、「こんなの普通でしょ」と思うレベルの底上げによって引き上げられると思う。

ブロガーって毎日作業するのが当たり前。

ブロガーでも3日に1回作業すればいいでしょ。

って二人がいたら、そりゃ前者が成長する。当たり前の基準が上がれば、通常作業の基準も上がる。その基準を上げるには「その基準が高い人」を知ること。

開き直る

考えすぎて理屈をこねくり回しているうちにさらに混乱してしまうよりも、ある程度まで突き詰めて結論が出ないときは、最後は開き直るしかない。 「もうちょっとシンプルなことなんじゃないか」 「吹っきって、思いきりやってみよう」  実際問題として、短時間で技術的な修正をするのはほとんど無理である。  最後の最後は、どうやって吹っ切るか。よけいなことを考えない自分に入り込むかに尽きるのだと思う。

成功体験より失敗体験

アスリートにとって豊かなのは、成功体験よりもむしろ失敗体験だ。失敗体験が蓄積されていかないと、あとに続くアスリートが同じ状況に立ったとしても、同じ失敗を繰り返す可能性が高い。 「そういえばあのとき、ここで失敗したって言っていたな」  そういう記憶がうっすら頭のなかにあるだけでも、ぜんぜん違ってくる。  たとえば僕がオリンピックで犯した失敗の分析を子どもたちに語ることで、彼らは僕の失敗を追体験できる。そうすれば次に続く選手たちは同じ失敗をする確率が減ると思う。

成長と成功は違う。

「苦しい時期を耐えたら、必ず結果は出ますか」  スポーツ選手にこんなアンケートを取ったとしても、おそらく九〇パーセントは「出ないときもあった」と答えるだろう。確かにつらい時期を耐えたら成長はあるだろう。でも、成長と成功は違う。この違いに気づかないふりをする罪は大きいと思う。

「測る」とは、勝利条件を設定すること

メダル数で測るのか、メダリストの数で測るのか、金メダルの数で測るのか。基準をどれにするかによって戦略もまた違ってくる。人生の難しさも、この辺りにあるのだろうなと思う。人生の目的は絞りにくい。仕事さえうまくいけばいいと思っていたら、隣に幸せそうな家族を持っている人がいるとそれが羨ましくなる。ゆったりとした幸せを生きるのが幸せと思っていても、夢に燃えている人を見るとこんなことではいけないと焦る。幸福の基準を自分の内に持たない人は、幸福感も低くなりがちだ。 「測る」とは、勝利条件の設定にほかならない。どうすれば勝ちなのかが決まって初めて戦略が生まれる。社会や人生における勝利条件として万人に共通なものはない。だから自分や組織で決めるしかない。

人生はトレードオフの積み重ね

適切な例かどうかはさておき、女子レスリングで金メダルを目指している女の子が、一方ではAKBにも入りたいと考えていたとする。ところが、レスリングにおける自分のランキングが上がっていけばいくほど、アイドルとしてのランキングはおそらく下がっていくということが起こるだろう。  女子レスリングにおけるランキングを上げようとすると、筋力をアップさせる必要がある。すると、必然的に一般的なアイドル像である華奢な体つきからは遠ざかっていく。激しい組み合いによって指は太くなり、場合によっては顔に傷ができたり歯を折ったりするかもしれない。レスリングがうまくなるほどアイドルからは遠ざかるのである。  人生とはこうしたトレードオフの積み重ねである。スポーツでのランキングを上げようと粘ることが、別の人生の可能性のランキングを下げてしまうこともある。このジレンマを解決するには、自分のなかにおける優先順位を決めるしかない。自分にとって一番大切なランキングは何かを決めるのだ。

選ぶ努力

努力には、「どれだけ」がんばるか以外に、「何を」がんばるか、「どう」がんばるか、という方向性があるということだ。日本では指導者が、何をがんばるか、どうがんばるかまで決めてくれることが多い。そうなると選手の担当はひたすらにそれを積み重ねることになる。がんばることは重要で、日々を積み重ねることも重要なのだけれど、たとえばもう陸上では勝てる可能性がない人が陸上の努力を積み重ねていることもある。  積み重ねと違って、「何をがんばるか」という選ぶ努力には、冷静に自分を見てだめなものはだめと切り捨てる作業がいる。これは、精神的にかなりつらい。まず、目標に向かって決めたことを積み重ねられることは大事だけれども、その次に、自分で将来どうなりたくてそのために必要なものをちゃんと理解できているかどうかが問われるときがくる。  積み重ねるほうにだけ必死になっていて、選ぶ努力を怠った結果、空回りしている人も多い。結局、「選ぶ」ことを人まかせにしてしまうと、自分にツケが回ってくる。

努力量と実力は比例しない

努力がすべてだと言われて僕は育っていたから、僕に敗れ去っていった選手に対してどこか努力が足りなかったんだろうという目で見ていた。でも、引退近くになり自分の実力が落ちていくなかで、努力量と実力は比例しないのを知った。スポーツはまず才能を持って生まれないとステージにすら乗れない。僕よりも努力した選手も一生懸命だった選手もいただろう。でも、そういう選手が才能を持ち合わせているとはかぎらない。

理屈ではどうしても理解できない、努力ではどうにもならないものがあるとわかるためには、一度徹底的に考え抜き、極限まで努力してみなければならない。そして、そこに至って初めて見えてくるものもある。

才能があると思えているところからスタートしている努力と、自分にはまったく才能がないとしか思えないところからスタートしている努力は、苦しさがまったく違うのではないだろうか。

陸上で走ることのほうがずっと楽しかった。どれだけ長い時間練習しても苦にならない。練習で同じ時間を費やしても、楽しくて仕方がない競技とそうではない競技では、その「濃度」が違う気がした。  才能のある人は、練習の一部は娯楽になっている可能性がある。しかし、才能のない人たちにとってみたら、練習は苦役でしかない。

そんなにスゴくない

世の中には自分より桁違いに賢くて、未来が正確に見通せる人がいるわけではない。 「人間だから、間違えることもある」 「どんなに優秀な人でも、わからないこともある」  こういうところを出発点にしていれば、想定外のことが起きたり、自分の思いどおりにいかないことが起こった場合に、相手を責める心境にはならないはずだ。

世の中はただそこに存在している。それをどう認識してどう行動するかは自分の自由で、その選択の積み重ねが人生である。なんてひどい社会なんだ。そう嘆きながら立ち止まっているだけの人生もある。日々淡々と自分のできることをやっていく人生もある。選ぶのは自分だ。

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